完治はしないと言われたあの日から5年。
終わりを意識したから見えた「人生の本質」

多発性骨髄腫

2025年11月11日

病気になる前は無茶な働き方をしていたと話す小竹稔さん。そう振り返る表情には、命の期限を考えざるをえない状況を経て、自分に優しくなれた内なる変化が垣間見られました。多発性骨髄腫と告げられ恐怖に震えた日から、どのように現実を受け入れて今に至ったのか、飾らない言葉で語っていただきました。

お話を伺った方:小竹稔さん(仮名)・48歳(罹患時42歳)、多発性骨髄腫

何かの間違いでしょう…。人生が音を立てて崩れた診断の日

体調の変化といえば、テニスの練習中に息切れがひどくなったな、という程度でした。病院を受診したのは、献血時の血液検査で総蛋白値が高く要検査になったのがきっかけです。小児科医をしている旧知の友人に相談し検査をしてもらったところ、これはちょっと問題があると言われて地元の大学病院を紹介してもらいました。

大学病院で骨髄穿刺をしたら骨髄の約40%が腫瘍だと言われましたが、明確な症状が出ていないため多発性骨髄腫の前段階にあたる、意義不明の単クローン性ガンマグロブリン血症(MGUS)と診断。しかし念のために受けたPET-CT検査で頸椎から胸椎、骨盤などに溶骨性変化※1が見つかり多発性骨髄腫と診断されました。

当初、医師はまだ若いから大丈夫と楽観的だったので、病気がわかり「完治はしません」と言われたときは現実を受け入れられず呆然としました。何かの間違いでしょうって。これから婚活をしたいと思った矢先だったし、人生計画が吹っ飛び叩き落とされた気がしました。私の人生はあまり長くないと思ったら、病院からの帰り道に涙が止まらなかったのを覚えています。

多発性骨髄腫は初めて聞く病名で、今まで意識さえしていなかったです。インターネットで検索し、平均余命は5年程度という数字を見たときは、死の恐怖が背中を這い上がってくる感覚に襲われて眠れなくなりました。それと恐怖心のせいかデスクワーク中に心拍数が100を超えたことがあり、ちょっとした体の変調がすべて病気の症状に思えて怖かったです。何が原因だったのか、どうして私がこんな目に合わないといけないのか。そんな思いが頭の中を駆け巡っていました。

※1:骨髄腫細胞が増えて破骨細胞の働きを促し、骨が過剰に溶けてもろくなった状態。

自ら探し、信頼できる医師のもとで治療

治療は病院選びから始まり、友人のつてを使い、セカンドオピニオン外来も利用して長期的に治療をまかせられる病院を慎重に選びました。私なりの基準は、ちょうどCAR-T療法※2の報道が始まった時期だったので、治験を含めた最新治療を行える可能性が高い病院、すなわち設備が整っていて同病の患者さんが多く集まる病院であること。化学療法中の体調不良を見越して通いやすさも重視しました。最終的には、完治は難しいけどそれでも「完治を目指しましょう」と前向きな言葉をかけてくれた医師におまかせしようと決めました。

幸いにも抗がん剤の副作用は軽く、最初のVRD療法中※3はテニスを楽しめるくらい体調は安定。IgG値が大幅に減少し、医師に「治療の効果が出ています」と前向きな評価をいただいたので精神的にも楽になりました。

自家造血幹細胞移植から5年、今も化学療法を続けています。薬は何度か変えましたが効果がなくなったからではなく、骨髄腫細胞を増やさないために効かなくなる前に違う療法に切り替えて徹底的にがんを叩くという医師の見解に従ったからです。治験については、提案される機会があれば前向きに考えたいです。私が多くの治療薬を使えるのは、これまで治験に参加した方々のおかげですし、今度は私が次の患者さんのためにできることをするのは当然だと思っています。

治療を振り返ったとき一つ残念に思うのは、自家移植前に生殖機能への影響について説明がなかったことです。説明を受けても決断は変わらなかったと思うけど、婚活を考えていた身としては、説明があれば精子保存という選択肢も考えられたなと。そう思うと少し残念ではありますね。

※2:患者のT細胞を遺伝子操作してがん細胞を攻撃できるようにする免疫療法。リンパ球の採取、ブリッジング治療、CAR-T細胞の投与という3ステップを踏む。
※3:ボルテゾミブ、レナリドミド、デキサメタゾンという薬剤を組み合わせた治療法。

関心を寄せてくれる相手が一人いれば、救われる

家族は高齢の母と遠方に暮らす兄がいますが、診断の翌月くらいにコロナの流行が始まったので会う機会は少なかったです。もともと一人で過ごすのが苦ではないので、寂しいと感じることはなくむしろ気楽でしたよ。退院したらこれをしようという目標設定があると人に会えなくても頑張れるもので、スキューバダイビングの資格を取ったので潜りに行こうとか、手に入れたお気に入りのガンプラ(機動戦士ガンダムの模型)を造ろうとか、それが治療のモチベーションになっていました。

移植後の体調はきつかったけど、楽することを心がけながら家のことは自分でやり、誰かの手を借りることはなかったです。心の支えは何かと聞かれたら、私の場合は異性の配偶者やパートナーではなく、小児科医の友人や親戚の存在ですね。その友人は家にこもりがちな私を食事や旅行に連れ出し、いつも前向きな言葉をかけてくれたんです。がんになった私にどう接していいかわからず距離を置く友人が多いなかで、一人でも自分に関心を寄せてくれる相手がいることが大きな支えになりました。

治療しながら働ける環境を整え、経済的基盤を確保

仕事は弁護士で法律事務所を経営しています。医師に多発性骨髄腫の治療はお金がかかるから「生きるためにお金を稼いでください」と言われていたので、仕事をやめるつもりはなかったです。続けるための準備としては、複雑な長期案件を受けるのは難しくなり、収入が激減するだろうと判断し、事務所を移転・縮小し固定経費を一気に削減しました。移転先の選定は、通院や投薬後の倦怠感に備えて病院に近いこと、横になって休めるスペースがあることを重視しました。

コロナの影響でオンラインによる働き方が定着し、弁護士の仕事もオンラインでやりとりできることが増えたおかげで長く休まずに済んだのはよかったです。証人尋問が迫っていた事件などは、友人の弁護士に引き継いでもらい”人財”を総動員して対応しました。

経済面では高額療養費制度のありがたみを実感しています。月の窓口負担額は限度額認定証を利用すれば数万円に収まりますし、加入していたがん保険により期間限定ですが窓口負担が填補されたので、お金の心配なく治療できたのは恵まれていたと思います。

終わりにおびえて過ごすより、喜びのために時間を使いたい

医師からは「完治は難しいけど10年は大丈夫でしょう」と言われました。それなら残された期間を10年と考え、その時間を恐怖におびえながら過ごすより自分の喜びのために使い楽しく過ごしたい。そうやって気持ちを切り替えてからは、自分にとって価値があると感じられることに絞って動いているから生活の納得度が上がりました。仕事にしても限られた人生の時間と労力に見合う価値があるのか、それを吟味するようになってからストレスが随分と減りました。趣味のスキューバダイビングは、頸椎から腰椎にかけて穿孔があるのでアクアラングを背負うのは危険だけど、楽しみを我慢して長生きするよりリスクに見合う喜びがあるからやっぱり潜りに行きたいですね。

もちろん命の期限を考えると恐怖感に襲われることはあるけど、目の前にある自由な時間を欝々と過ごすのは損だな、というところに必ず戻ってくる感じです。

今はこれといって大きなプランはないけど、来年はまだ潜ったことのない南の島でスキューバダイビングを楽しみたいです。あとは年明けに観たい映画があって、中学からの友人と観に行く約束をしたので公開が待ち遠しくて。些細だけど心からやりたいと思うことを掲げて、それを楽しみにしながら日々を送っていきます。

取材/文 北林あい