高校生になる娘にお弁当を作れる母親でいたいから。
選んだのは自家移植を希望しないという道

多発性骨髄腫

2025年12月24日

病気になるといくつもの選択を迫られ、そのたびに大切なものと治療を秤にかけて進む道を決めなくてはなりません。自家移植を選ばなかった吉岡真弓さんが大切にしたかったこととは。そして長い治療のなかで変化する思いに向き合い、常に自分に正直であり続けた心の内を語っていただきました。

お話を伺った方:吉岡真弓さん(仮名)・56歳(罹患時47歳)、多発性骨髄腫

高校入学を控えた娘を思い、優先したのは普通の生活

ある日、くしゃみをしたらピキッと音がして左鎖骨が折れた感覚があり、整形外科を受診しました。MRI検査を経て血液内科にたどり着き、多発性骨髄腫と診断。骨折から始まったのでまさか血液の病気につながるとは思わず、聞いたことのない病名だったこともありびっくりしました。

治療は化学療法を5クール行い、次に予定していた自家移植は自分の意思でお断りしました。理由は、私のなかで抗がん剤は怖いというイメージが強かったからです。一次治療の化学療法はなんとかクリアしましたが、移植前に行う大量の抗がん剤治療はどうしても受け入れられず。副作用で体力が落ちたり、脱毛のショックを受けたりするくらいなら、今の生活を大切にしたほうがいいと思い選択しませんでした。

それだけでなく、自家移植をする時期と娘の高校入学が重なり、娘が慣れない環境で頑張らなくちゃいけないときに、母親が弱々しくしていられないと思ったんです。髪が抜けて体力が落ちた母親の姿を見せたくなかったし、お弁当だってちゃんと作ってあげたくて。多感な年頃の娘に余計な心配をかけたくなかったのだと思います。いま思えば命知らずですが、主治医は私の意思を尊重し受け入れてくれました。

治療疲れを実感、無治療を目指しCAR-T細胞療法へ

自家移植をせず1年ほど無治療期間が続きましたが、腎機能が低下して体がものすごくだるくなり次の化学療法を開始。いくつか化学療法を行いましたが幸いにも強い副作用はなく、退院するとパートに復帰して病気と共存しながら日常生活を送っていました。しかしEPd療法※1中には右大腿骨を骨折し、骨の中にチタンという金属を入れて固定する手術と放射線療法を経験しました。

その頃、長い治療の日々に疲労感を覚え始め、そろそろ強い治療をして無治療期間を少しでも長くしたいという思いがわいてきました。自分の気持ちを主治医に伝えると、「この病院で可能な化学療法は、現在のIsaPd療法※2が最後です。ご自身が考えている以上に病状はよくない」と言われ、えっと驚きました。今後は自家移植、同種移植、CAR-T細胞療法※3という選択肢があるけど、最終決定はセカンドオピニオンの医師と相談して決めるように言われ、すべての治療法に対応している病院を紹介してもらいました。その場でセカンドオピニオンを予約しなさいと促され、とても強い口調で「CAR-T細胞療法を希望してきなさい」と言われて深刻な状況を理解しました。

セカンドオピニオン外来の医師曰く、私は治療歴が多いので、自家移植を選んでも幹細胞を採取できる保証はなく、同種移植はもう少し早い段階じゃないと難しいという見解。残る選択肢はCAR-T細胞療法しかないと言われ、望みを託そうと決めました。

※1:エロツズマブ、 ポマリドミド、 デキサメタゾンという薬剤を組み合わせた治療法。
※2:イサツキシマブ、ポマリドミド、デキサメタゾンという薬剤を組み合わせた治療法。
※3:患者のT細胞を遺伝子操作してがん細胞を攻撃できるようにする免疫療法。リンパ球の採取、ブリッジング治療、CAR-T細胞の投与という3ステップを踏む。

片道4時間、苦ではなかった遠距離通院

主治医に紹介していただいた病院までは、新幹線で片道4時間。当時は通院歴がないとCAR-T細胞療法を行えなかったので、地元の病院で化学療法を続けながら、経過観察のために新幹線で月に一度通っていました。大変そうと言われるけど、ずっと地元で通院と入院を繰り返していたので、外の空気を吸える嬉しさもあり、まったく苦ではなく旅行感覚で通っていました。

CAR-T細胞療法はアベクマの投与より、ブリッジング療法が不安でした。自家移植を断り強い治療をしてこなかったので、薬の名前を聞くだけで怖さが先立ち、まずはブリッジング療法を2クールこなすことが目標でした。初めての脱毛に備え、ブログを通じて知り合った患者さんにウィッグや帽子の情報をもらい、数カ月したら髪は生えてくるよと聞いてすごくほっとしたのを覚えています。

入院前日に娘が母の日のプレゼントを届けてくれて、送り迎えをしてくれた夫や息子にも感謝しています。CAR-T細胞療法後は寛解を維持し、日常生活を取り戻しました。自家移植を選んでいたら違う結果になっていたかもしれないけど、自分で迷いなくやらないと決めたので後悔はしていません。やらなかった経験者としてアドバイスするなら、自家移植によって無治療で過ごせる期間があったり、その後の選択肢も変わってきたりするので、できるときにやったほうがいい、というのが私なりの意見です。

障害年金を受給できて医療費の不安が軽減

この病気に罹患して驚いたのが高額な治療費です。私の場合、治療期間が長いのでその金額を払い続けられるのかという不安がありました。お金のことを調べるなかで障害年金を知り、血液疾患も該当したので申請することに。私は国民年金の第3号被保険者なので、該当する障害基礎年金は1級、2級しかありません。厚生年金に加入している人は障害厚生年金に該当し、3級まであるからハードルは少し低くなるのですが……。どうなるか不安でしたが、数カ月後に受給の知らせが届きほっとしました。

障害年金のおかげで多少なりとも毎月の医療費負担は減り、思い切って申請してよかったです。診断書は2年に1回提出し、状態が良くなったと判断されると受給が止まり、いまは体調が落ち着いているので停止しています。

孤独を癒してくれた患者仲間とのつながり

EPd療法の3クール目で右大腿骨を骨折し、骨折観血的手術を行った時期にブログを始めました。術後の経過を知りたくてインターネットで調べましたが、当時は情報がまったく見つからず、それなら自分の治療経過を発信し誰かの役に立ちたいと思ったのがきっかけです。

地元を離れて知らない土地、知らない病院でCAR-T細胞療法を行い、気軽に家族に頼み事ができない状況はとても孤独でした。でも同じ病院にブログを通して知り合った患者さんが入院していたり、コメントをいただいたりすると、孤独感が癒えて一人じゃないと思えたのはつながりのおかげだと思います。

いまは無治療で過ごせるありがたみを噛みしめ、毎日を大切に生きています。贔屓にしている球団があるので、遠方だけど来年こそは球場に足を運んで声援を送り、勝利を分かち合いたい。そんな少し先の楽しみが元気のもとです。

 

取材/文 北林あい